何故、人間はそのような考え方に至るか?
2013.09.20.05:13
現在、私が通っているSDA日系教会において講演会が行なわれている、日程は11日間にわたる。
講師は元原宿中央教会で長い間牧師を勤められて現在は引退され、各地を講演活動をなさっているS先生と言う方、実はこの方、私が良く知っている方だった、それは私が30代の頃、この中央教会に通っており、このS牧師当時の教会牧師であった。
当時もそう思っていたが、このS先生、話しがお上手である、話しに説得力があり、話も分かりやすい、
私も教会信者である妻の影響で長い間教会には通っている、通算すればもう何十年にもなるのだろう、だが、いまだもって信者ではない、信者である洗礼は受けていない。といって教会教義や聖書、否定している訳ではない。
ただ、これはキリスト教に限らず、私は宗教なるものにいささか懐疑的な思いがあり、それらを簡単には受け入れられない自分があり、難しい、、そう感じている。
私は人間にとって宗教が不可欠とは思わないが、といって否定はしない、逆にカナダのような異民族が多数住む国に住んでいれば、自分の宗教を持っていないほうが珍しいし、宗教とはある意味、その宗教を信じている民族、人々のバックボーンであり、価値観にも繋がっている、いいとか悪いとかの問題ではない、そんな事もあってカナダではお互いに話しをする場合、互いに宗教の話しをしない、そういう暗黙の了解がある。
さて、人間には自分が信じる思想信条が有る、主義主張がある、それらがどういった経緯で形つけられたのかは千差万別で人それぞれ違う、育った環境もあるし、学んだ教育、読んだ本、出会った人間、でいく様にも変化する。
中には洗脳もあるし、刷り込みによる思い込みもあるだろう、
私自身、現在は右翼ではないが考え方としてはやや右よりで愛国者と思っている。
愛国者と思っていると書いたが、この思い、実はカナダに移住しこの国で暮らし、遠く離れた祖国日本を見ていてその思いが強くなったと思っている、つまるところ、根っからの愛国者だった訳ではない、更にいえば私は思想的には転向者の1人、若き時には左翼青年の1人だった。
理想的な社会制度のあり方として共産主義、社会主義に影響を受けた。母が炭鉱労組の役員をやっていた関係で労働者は金持ち階級に搾取されている、そんな考え方にも影響を受けた。当時の学生運動、積極的には参加しなかったが彼らの主張、支持していた。
しかし、企業に職を得、厳しい競争社会を経験する内にこの考え方に違和感を生じ、雑学ではあるが色んな種類の本をむさぼるように読み、それも大量に読んだ、又、私は歴史書が好きでこれも色んな本を読んだ。
そうする内に色んな矛盾点が目に付き始めてきた、段々、自分の中での呪縛が解けてきた。そして現在に至った。
良く私が記事で書く、日本における自虐史観思想、実は私もこの見方をしていた時期があった、多分それは戦後の日教組の刷り込み教育であり、その意味ではこの自虐史観思想、日本人なら当たり前と思っていた。
だが、現代日本史、戦後の歴史を勉強した結果、これらの教育には目的や意図があり、それに応じた教育だった事が分かった、戦前の軍国主義、アジア侵略、あたかも日本が侵略戦争をやり、アジアの国々、人々に苦痛を与えた、戦前の日本が悪い国であり、日本人はそれに加担した悪い国民だった。勿論、そういう側面があった、それは否定しないが、だがそれは真実だったと言う見解には組しない。
戦争有ってはならない、誰だってそう思う、だが大きく言えば人類の歴史、戦争の歴史でもある。平和とはその戦争が無い時期であって、平和であるべきだとする理想主義、言うだけなら簡単、、だがお題目のように何百回となえても平和を保つ事ができるか?そんな事はない。
学校に於ける虐め問題、有識者が言う、あってはならない、在日に対する差別、やってはならない、日本に原発、危険なので全て廃炉にすべきである、、、だがそれらの主義主張に問題の本質、原因、因果関係を掘り下げ、あらゆるデータ、問題点を精査していっているのか、どうもそれは違うような気がする。
例えば原発、これは国のエネルギー政策とも関連している、では全ての原発廃炉にした場合、代替エネルギーはどうするのか、産業はどうするのか、既に放出されてしまった汚染をどうするのか、これをイデオロギーとして声高に叫んでも意味はない。
つまり、それらの意見、主張、考え方、それぞれが生きてきた価値観、持っている思想信条が反映される、そしてそれを正しい、真実だと確信している、中にはそう思わされている方もあるが”
私も逆の意味ではそうかもしれない、、、ただ、こうは思う。世の中に絶対的真実なんか無い、唯一つあるとすれば、人間はいつか死ぬそれだけなんだが、とにかく見方が違えば真実も異なる、よくいう、では納得のいくよう議論をしましょう、では議論しても駄目な場合どうするのか、駄目な事に付いて議論をするのか、下らん話しだと思う。
極端に意見が違う、その場合、意見が合わない、それで良い、合う人間と付き合えばよい、
私はこの歳になるまで色んな人間とであった、良い人間もあった、生まれつき邪悪で根性が腐っている人間もいた、邪悪ではなかったが育ちが悲惨でその結果根性がひねくれてどうにも矯正が効かない人間もいた、ずる賢い人間もいた、要領だけで世間を渡っている人間もいた。
色々いたが、私が一番嫌いな人間、一見善良そうに演じる偽善者である。だがこの偽善者達、本人はそう思っていない、だから始末が悪い。そしてこの種の人間、世の中には以外と多い。
まあ、こんな事を書いても意味は無いが、一度、書いてみたかった。
講師は元原宿中央教会で長い間牧師を勤められて現在は引退され、各地を講演活動をなさっているS先生と言う方、実はこの方、私が良く知っている方だった、それは私が30代の頃、この中央教会に通っており、このS牧師当時の教会牧師であった。
当時もそう思っていたが、このS先生、話しがお上手である、話しに説得力があり、話も分かりやすい、
私も教会信者である妻の影響で長い間教会には通っている、通算すればもう何十年にもなるのだろう、だが、いまだもって信者ではない、信者である洗礼は受けていない。といって教会教義や聖書、否定している訳ではない。
ただ、これはキリスト教に限らず、私は宗教なるものにいささか懐疑的な思いがあり、それらを簡単には受け入れられない自分があり、難しい、、そう感じている。
私は人間にとって宗教が不可欠とは思わないが、といって否定はしない、逆にカナダのような異民族が多数住む国に住んでいれば、自分の宗教を持っていないほうが珍しいし、宗教とはある意味、その宗教を信じている民族、人々のバックボーンであり、価値観にも繋がっている、いいとか悪いとかの問題ではない、そんな事もあってカナダではお互いに話しをする場合、互いに宗教の話しをしない、そういう暗黙の了解がある。
さて、人間には自分が信じる思想信条が有る、主義主張がある、それらがどういった経緯で形つけられたのかは千差万別で人それぞれ違う、育った環境もあるし、学んだ教育、読んだ本、出会った人間、でいく様にも変化する。
中には洗脳もあるし、刷り込みによる思い込みもあるだろう、
私自身、現在は右翼ではないが考え方としてはやや右よりで愛国者と思っている。
愛国者と思っていると書いたが、この思い、実はカナダに移住しこの国で暮らし、遠く離れた祖国日本を見ていてその思いが強くなったと思っている、つまるところ、根っからの愛国者だった訳ではない、更にいえば私は思想的には転向者の1人、若き時には左翼青年の1人だった。
理想的な社会制度のあり方として共産主義、社会主義に影響を受けた。母が炭鉱労組の役員をやっていた関係で労働者は金持ち階級に搾取されている、そんな考え方にも影響を受けた。当時の学生運動、積極的には参加しなかったが彼らの主張、支持していた。
しかし、企業に職を得、厳しい競争社会を経験する内にこの考え方に違和感を生じ、雑学ではあるが色んな種類の本をむさぼるように読み、それも大量に読んだ、又、私は歴史書が好きでこれも色んな本を読んだ。
そうする内に色んな矛盾点が目に付き始めてきた、段々、自分の中での呪縛が解けてきた。そして現在に至った。
良く私が記事で書く、日本における自虐史観思想、実は私もこの見方をしていた時期があった、多分それは戦後の日教組の刷り込み教育であり、その意味ではこの自虐史観思想、日本人なら当たり前と思っていた。
だが、現代日本史、戦後の歴史を勉強した結果、これらの教育には目的や意図があり、それに応じた教育だった事が分かった、戦前の軍国主義、アジア侵略、あたかも日本が侵略戦争をやり、アジアの国々、人々に苦痛を与えた、戦前の日本が悪い国であり、日本人はそれに加担した悪い国民だった。勿論、そういう側面があった、それは否定しないが、だがそれは真実だったと言う見解には組しない。
戦争有ってはならない、誰だってそう思う、だが大きく言えば人類の歴史、戦争の歴史でもある。平和とはその戦争が無い時期であって、平和であるべきだとする理想主義、言うだけなら簡単、、だがお題目のように何百回となえても平和を保つ事ができるか?そんな事はない。
学校に於ける虐め問題、有識者が言う、あってはならない、在日に対する差別、やってはならない、日本に原発、危険なので全て廃炉にすべきである、、、だがそれらの主義主張に問題の本質、原因、因果関係を掘り下げ、あらゆるデータ、問題点を精査していっているのか、どうもそれは違うような気がする。
例えば原発、これは国のエネルギー政策とも関連している、では全ての原発廃炉にした場合、代替エネルギーはどうするのか、産業はどうするのか、既に放出されてしまった汚染をどうするのか、これをイデオロギーとして声高に叫んでも意味はない。
つまり、それらの意見、主張、考え方、それぞれが生きてきた価値観、持っている思想信条が反映される、そしてそれを正しい、真実だと確信している、中にはそう思わされている方もあるが”
私も逆の意味ではそうかもしれない、、、ただ、こうは思う。世の中に絶対的真実なんか無い、唯一つあるとすれば、人間はいつか死ぬそれだけなんだが、とにかく見方が違えば真実も異なる、よくいう、では納得のいくよう議論をしましょう、では議論しても駄目な場合どうするのか、駄目な事に付いて議論をするのか、下らん話しだと思う。
極端に意見が違う、その場合、意見が合わない、それで良い、合う人間と付き合えばよい、
私はこの歳になるまで色んな人間とであった、良い人間もあった、生まれつき邪悪で根性が腐っている人間もいた、邪悪ではなかったが育ちが悲惨でその結果根性がひねくれてどうにも矯正が効かない人間もいた、ずる賢い人間もいた、要領だけで世間を渡っている人間もいた。
色々いたが、私が一番嫌いな人間、一見善良そうに演じる偽善者である。だがこの偽善者達、本人はそう思っていない、だから始末が悪い。そしてこの種の人間、世の中には以外と多い。
まあ、こんな事を書いても意味は無いが、一度、書いてみたかった。
スポンサーサイト