お可哀相な雅子様、2、雅子とその父の陰謀。
2013.03.20.23:20
先ず、雅子妃の父、小和田氏(元、外務省事務次官)彼は外務省機密費不正流用発覚で危なかったという事実がある。
では、雅子とその父、雅子が皇太子妃になるまでの陰謀、書いてみたい。
この話は世間一般で語られた話とはだいぶ異なる、その旨、最初に記しておきたい。
1984年 皇太子、プライベート旅行でヨーロッパに行った、フランス、アルザス地方、ドイツ国境に近いコルマールという都市を訪れている、この時、ある女性を伴っていた、その女性、後日、取材で当時の関係者に写真を見せて確認した所、何と、小和田雅子だった、雅子、当時はハーバード大学の学生。
巷の報道では博飲み屋、雅子と最初にあったのは、スペイン、エレナ王女来日レセプション、1986年、10月、此処であった事になっているが、実際は2年前であったという事実。
1981年~1985年、雅子、ハーバード大学留学時代、この時、雅子、友人にプリンセス候補になったと漏らす、尚、この時、父、小和田氏、アメリカで外交官と同時に同大学の客員教授、雅子は客員師弟の枠,つまり、コネ入学。更に細かく言えばハーバード大学傘下の女子部のカレッジであった。
1986年、新進外交官の卵としてNHKの番組に出演。
1986年、雑誌、フォーカスに父娘、2代の外交官としてグラビアに登場。
1986年 10月、スペインエレナ王女の歓迎茶会に登場、広飲み屋と出会う、実はこの件、裏でこういう話がある、それはエレナ王女が訪日された折、その歓迎会リストに何故か、急遽、小和田雅子の名前が、鉛筆の手書きで付け加えられたという事。
1986年、11月、雅子、日英協会のパーテイ出席、再び、博飲み屋と会う。
1986年、12月、雅子、東宮御所の年越しパーテイの招待される、博飲み屋と会う。
1987年、1月、 再び日英協会のパーテイ、博飲み屋と会う。
1987年 4月、 雅子、高円宮邸で博飲み屋と歓談、この高円宮、当時、雅子の父、外務省外郭団体に勤務しており、雅子の父とは皇太子妃入りを狙う、陰謀仲間。
1987年、博飲み屋、御所に雅子を招待、夕食を共にする。
1087年~1988年、先の昭和天皇や他の皇族、宮内庁から雅子の母方の祖父、チッソ社長だった江頭氏、水俣病問題の関わりや、その他〔?〕の問題で雅子の皇太子妃候補、強力に反対される。
元もと、この雅子、宮内庁が策定した皇太子のお妃候補リストには全く、載っていなかった。
博飲み屋、泣く泣く、いったん、諦める。
1988年、雅子、外務省職員として国費留学でオックスフォード大学大学院に学ぶ。当時24歳~26歳、ただし、同期留学生の中でただ1人、修士号、取れなかった。ちなみにこれ国の税金、
1989年 雅子との結婚に強力反対していた、昭和天皇崩御された。
1990年、外務省に戻っていた雅子、外務省OBであった柳谷謙介氏宅で博飲み屋と再開、このセッテイング、裏で雅子の父が画策した。
そして婚約、後成婚、現在に至る。
これまでの一連の流れを見ても、雅子の父、小和田氏が元外務省次官と言う立場の力を利用し、更に高円宮という皇室を利用したい人間、そして小和田氏と非常に近い学会、特に池田氏、これらも人間が手を組み、なんとか雅子を皇室、天皇家に送り込みたい、それがうまく言った。結果的にはそうなった。
では何故、そこまでして雅子を博飲み屋と一緒にさせたかったか、それは三者三様の目論見があった。
小和田氏は日本のプリンセスの父として、その影響力を使いたかった。その目論見は今の所、成功している、高円宮、彼も雅子を擁護する事で、皇室の発言権、影響力を保持したかった、だが、どういう訳が突然死した。
学会の池田氏、彼の野望、創価学会が日本の皇室を支配する、その作戦、現在進行形ではあるが、だが当の池田氏、死亡説が出る位、その動静が隠されている。
雅子の学業優秀、才媛であるという話は作られた話である、簡単に言えば、学歴ロンダリング、ハーバード大、オックスフォード大、全て、父のコネ入学、東京大学は中途入学で中途退学、卒業はしていないし、外務省試験合格も外務省高官師弟枠の入学試験、現在の難しい国家公務員外交官1試験とは異なる、簡単試験で後は面接のみ、これも父のコネ、所属は北米2課、当時の同僚の話では彼女の評判、極めて、悪し。
この記事、続く
3は宗教学者の山折哲雄氏が、新潮45,3月号に寄稿した、(皇太子殿下、ご退位なさいませ)という論文について、何故、そういう話になるのか、それらも含めて書いてみたい。
では、雅子とその父、雅子が皇太子妃になるまでの陰謀、書いてみたい。
この話は世間一般で語られた話とはだいぶ異なる、その旨、最初に記しておきたい。
1984年 皇太子、プライベート旅行でヨーロッパに行った、フランス、アルザス地方、ドイツ国境に近いコルマールという都市を訪れている、この時、ある女性を伴っていた、その女性、後日、取材で当時の関係者に写真を見せて確認した所、何と、小和田雅子だった、雅子、当時はハーバード大学の学生。
巷の報道では博飲み屋、雅子と最初にあったのは、スペイン、エレナ王女来日レセプション、1986年、10月、此処であった事になっているが、実際は2年前であったという事実。
1981年~1985年、雅子、ハーバード大学留学時代、この時、雅子、友人にプリンセス候補になったと漏らす、尚、この時、父、小和田氏、アメリカで外交官と同時に同大学の客員教授、雅子は客員師弟の枠,つまり、コネ入学。更に細かく言えばハーバード大学傘下の女子部のカレッジであった。
1986年、新進外交官の卵としてNHKの番組に出演。
1986年、雑誌、フォーカスに父娘、2代の外交官としてグラビアに登場。
1986年 10月、スペインエレナ王女の歓迎茶会に登場、広飲み屋と出会う、実はこの件、裏でこういう話がある、それはエレナ王女が訪日された折、その歓迎会リストに何故か、急遽、小和田雅子の名前が、鉛筆の手書きで付け加えられたという事。
1986年、11月、雅子、日英協会のパーテイ出席、再び、博飲み屋と会う。
1986年、12月、雅子、東宮御所の年越しパーテイの招待される、博飲み屋と会う。
1987年、1月、 再び日英協会のパーテイ、博飲み屋と会う。
1987年 4月、 雅子、高円宮邸で博飲み屋と歓談、この高円宮、当時、雅子の父、外務省外郭団体に勤務しており、雅子の父とは皇太子妃入りを狙う、陰謀仲間。
1987年、博飲み屋、御所に雅子を招待、夕食を共にする。
1087年~1988年、先の昭和天皇や他の皇族、宮内庁から雅子の母方の祖父、チッソ社長だった江頭氏、水俣病問題の関わりや、その他〔?〕の問題で雅子の皇太子妃候補、強力に反対される。
元もと、この雅子、宮内庁が策定した皇太子のお妃候補リストには全く、載っていなかった。
博飲み屋、泣く泣く、いったん、諦める。
1988年、雅子、外務省職員として国費留学でオックスフォード大学大学院に学ぶ。当時24歳~26歳、ただし、同期留学生の中でただ1人、修士号、取れなかった。ちなみにこれ国の税金、
1989年 雅子との結婚に強力反対していた、昭和天皇崩御された。
1990年、外務省に戻っていた雅子、外務省OBであった柳谷謙介氏宅で博飲み屋と再開、このセッテイング、裏で雅子の父が画策した。
そして婚約、後成婚、現在に至る。
これまでの一連の流れを見ても、雅子の父、小和田氏が元外務省次官と言う立場の力を利用し、更に高円宮という皇室を利用したい人間、そして小和田氏と非常に近い学会、特に池田氏、これらも人間が手を組み、なんとか雅子を皇室、天皇家に送り込みたい、それがうまく言った。結果的にはそうなった。
では何故、そこまでして雅子を博飲み屋と一緒にさせたかったか、それは三者三様の目論見があった。
小和田氏は日本のプリンセスの父として、その影響力を使いたかった。その目論見は今の所、成功している、高円宮、彼も雅子を擁護する事で、皇室の発言権、影響力を保持したかった、だが、どういう訳が突然死した。
学会の池田氏、彼の野望、創価学会が日本の皇室を支配する、その作戦、現在進行形ではあるが、だが当の池田氏、死亡説が出る位、その動静が隠されている。
雅子の学業優秀、才媛であるという話は作られた話である、簡単に言えば、学歴ロンダリング、ハーバード大、オックスフォード大、全て、父のコネ入学、東京大学は中途入学で中途退学、卒業はしていないし、外務省試験合格も外務省高官師弟枠の入学試験、現在の難しい国家公務員外交官1試験とは異なる、簡単試験で後は面接のみ、これも父のコネ、所属は北米2課、当時の同僚の話では彼女の評判、極めて、悪し。
この記事、続く
3は宗教学者の山折哲雄氏が、新潮45,3月号に寄稿した、(皇太子殿下、ご退位なさいませ)という論文について、何故、そういう話になるのか、それらも含めて書いてみたい。