記憶。
2016.11.08.10:13
仮に私がこの世から消えたとしたら、一体誰が私の事を記憶しているのだろうか、最近、ふと、このようなしょうもない事を考える、多分、それは毎日が日曜日でもう先がなく、この数年の間に友人、知人がどんどん亡くなっていき、その亡くなっていった友人、知人の事を思い出す機会が多いせい、そんな風にも思ったりするからだと思う。
人間誰しもそうだが、歳をとると記憶が風化する、顔は鮮明に思いだす事が出来るのに、名前が思いだせない、その思いだした顔もその当時の顔のまま、学校時代の友人、先生、もう何十年も経っているの、おそらく、今、会ったとしても見分ける事は難しいかもしれない。
私がこのブログを初めてからもう5年以上経過する、ブログを通して友人になった方も沢山あった、だが、何人かはもうこの世にはいない、同様にお会いし交遊をした方の何人かも音信普通になってしまった。
それでもその方々の思い出は私の記憶の中で生きている。
よく、人と人との絆はその付き合いの長さではないという、そうかもしれないが、でも付き合いの長さは大きい、私が若い頃から、そして晩年まで付き合いのあった友人がこの2~3年でバタバタ亡くなり、寂しい限りなのだが、一方、たった一度限りの出会いながら強烈な印象を残された方もあった、一期一会とはこういう事を言うのかもしれない。
私は私自身の事はたいした人間とも思っていないし、我がままで下らない人間と思っている、人に誇る事は何もないし、誇るべきキャリアも持たない、だから、私と出会い、知り合ったとしても記憶の片隅にも残らないかもしれない、だからそれについては何の文句もない。
ただ、時々、私がふっとした折に思い出す、何人かの人のように、過去に私と関わった方が、私のように私の事を思い出してくれるのだろうか、そう思っただけの事、
こうなるひと昔前、自分の仕事があり、その仕事の責任があり、また、家族を養う責任があり、日々、忙しく生きていた時代にはこんなしょうもない事は考えてもみなかった、考えていたのは、どうやって他人に認めてもらえるか、どうやって成功を治めるか、どうやって同期よりも出世するか、そんな思いばかりであった。
考える事は未来志向、将来の事ばかり、
しかし、時は過ぎ、歳も取り、貧乏でもなく、金持ちでもなく、それほど不幸でもなく、そこそこの生活を送っている現在、そこから先はもう見えてきた、いずれ消えていく事には恐れも不安もない、ただ、大病を患って家族に負担を強いる、ある意は無駄な長生きをして周りに呆れさせる、このような事はないようにしたいと思っているし、痛みには弱いのでそのような場合には自分で始末をつけたいとも考えている。
いずれにせよ、毎日、無為に生きていることだけは間違いない、とは言え、自分の金で生きているのだから文句は言わせないが、そうではない人には歳を取り、金もなく、健康も優れず人の世話でしか生きられないとすれば悲惨な限りとしか言えないだろうと思う。
私は以前に何回も書いたが、遺言作成において、葬式は行わず、墓も不必要、死後は火葬として遺灰は散骨と記しているし、このブログももし私が亡くなれば、しかるべき人にこのブログの全面削除もお願いしてある、つまり形としては私が生きてきた証をこの世に残さない方法をとっているのに、死んだ後も誰かの記憶に残っているかどうかを気にする、ちょっと矛盾しているのでは?
まあ、そう思う方もいるかもしれないが、そうではなくてちょっと思っただけ、ただ、本音をいえば、自分が消えていくのにもかかわらずこの世の中は粛々として進み、日々の営みも何一つ変わらず続いていく、そしてそこには私はもういない、それは面白くない(笑い)、だがしょうがない、死は貧乏人も金持ちも、野心家もロクでなしも、高貴な方も下衆な方も、誰にでもやってくる,極めて公平、
面白くはないが納得している、そんな程度の話。
このしょうもないブログ、毎日、たくさんの方が見てくれている、だから、このブログ読者の方で、私がこの世から消滅した後で、誰か1人くらい、そういえば、昔、死にぞこない爺がカナダでしょうもない記事を書いていたな、よく、飽きもせずに雅子の馬鹿野郎とか盆暗ナルの禿とか書いていたな、そんな事をもしかして思いだしてくれるかもしれない。
もし、そうだったら、嬉しいな、と、生前に申し上げておきたい(笑い)
人間誰しもそうだが、歳をとると記憶が風化する、顔は鮮明に思いだす事が出来るのに、名前が思いだせない、その思いだした顔もその当時の顔のまま、学校時代の友人、先生、もう何十年も経っているの、おそらく、今、会ったとしても見分ける事は難しいかもしれない。
私がこのブログを初めてからもう5年以上経過する、ブログを通して友人になった方も沢山あった、だが、何人かはもうこの世にはいない、同様にお会いし交遊をした方の何人かも音信普通になってしまった。
それでもその方々の思い出は私の記憶の中で生きている。
よく、人と人との絆はその付き合いの長さではないという、そうかもしれないが、でも付き合いの長さは大きい、私が若い頃から、そして晩年まで付き合いのあった友人がこの2~3年でバタバタ亡くなり、寂しい限りなのだが、一方、たった一度限りの出会いながら強烈な印象を残された方もあった、一期一会とはこういう事を言うのかもしれない。
私は私自身の事はたいした人間とも思っていないし、我がままで下らない人間と思っている、人に誇る事は何もないし、誇るべきキャリアも持たない、だから、私と出会い、知り合ったとしても記憶の片隅にも残らないかもしれない、だからそれについては何の文句もない。
ただ、時々、私がふっとした折に思い出す、何人かの人のように、過去に私と関わった方が、私のように私の事を思い出してくれるのだろうか、そう思っただけの事、
こうなるひと昔前、自分の仕事があり、その仕事の責任があり、また、家族を養う責任があり、日々、忙しく生きていた時代にはこんなしょうもない事は考えてもみなかった、考えていたのは、どうやって他人に認めてもらえるか、どうやって成功を治めるか、どうやって同期よりも出世するか、そんな思いばかりであった。
考える事は未来志向、将来の事ばかり、
しかし、時は過ぎ、歳も取り、貧乏でもなく、金持ちでもなく、それほど不幸でもなく、そこそこの生活を送っている現在、そこから先はもう見えてきた、いずれ消えていく事には恐れも不安もない、ただ、大病を患って家族に負担を強いる、ある意は無駄な長生きをして周りに呆れさせる、このような事はないようにしたいと思っているし、痛みには弱いのでそのような場合には自分で始末をつけたいとも考えている。
いずれにせよ、毎日、無為に生きていることだけは間違いない、とは言え、自分の金で生きているのだから文句は言わせないが、そうではない人には歳を取り、金もなく、健康も優れず人の世話でしか生きられないとすれば悲惨な限りとしか言えないだろうと思う。
私は以前に何回も書いたが、遺言作成において、葬式は行わず、墓も不必要、死後は火葬として遺灰は散骨と記しているし、このブログももし私が亡くなれば、しかるべき人にこのブログの全面削除もお願いしてある、つまり形としては私が生きてきた証をこの世に残さない方法をとっているのに、死んだ後も誰かの記憶に残っているかどうかを気にする、ちょっと矛盾しているのでは?
まあ、そう思う方もいるかもしれないが、そうではなくてちょっと思っただけ、ただ、本音をいえば、自分が消えていくのにもかかわらずこの世の中は粛々として進み、日々の営みも何一つ変わらず続いていく、そしてそこには私はもういない、それは面白くない(笑い)、だがしょうがない、死は貧乏人も金持ちも、野心家もロクでなしも、高貴な方も下衆な方も、誰にでもやってくる,極めて公平、
面白くはないが納得している、そんな程度の話。
このしょうもないブログ、毎日、たくさんの方が見てくれている、だから、このブログ読者の方で、私がこの世から消滅した後で、誰か1人くらい、そういえば、昔、死にぞこない爺がカナダでしょうもない記事を書いていたな、よく、飽きもせずに雅子の馬鹿野郎とか盆暗ナルの禿とか書いていたな、そんな事をもしかして思いだしてくれるかもしれない。
もし、そうだったら、嬉しいな、と、生前に申し上げておきたい(笑い)
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