死に場所。
2016.06.20.00:20
最近、なんだかちょっと元気が出ない、気分が沈みこんでしまいがち、もしかして暫く出なかった鬱が出始めたのかもしれない、そうであれば放っておくしかないのだが、
先の記事で北海道、夕張への旅について書いた、この旅の目的の一つでもあった私の散骨の場所を特定する、その為の旅、その場所が此処。

此処は夕張市、清陵町、流れている川は夕張川、昔は石炭を洗っていた水を流していたので真っ黒な色の川だったが、今は綺麗な清流が淡々と流れている。
最初の写真、川に中島があるが、今から60年前程、この中島は川の真ん中にあった、下の写真、これは左手前に私の育った家があったが、その前に流れていた川がなくなりこのこの中島が岸にくっついてしまっていた。
川に橋が架かっているが、その昔は向こう岸にいくには大回りをしなければいけない場所であった。
私のこれからつくる遺言には、この写真を添付しここに私の遺灰を撒いてもらうように書き残す積りである。
さて、私の眠る場所は決まったが、死に場所は何処かとなると多分だがこのカナダの地になると思う、どこでどのような形で最後を迎えるかは分からないが、このカナダで亡くなる、それはそれで文句はない。
ただ英語でいうリビング、ウイル、別文遺言は改めて書き残しておかなければならない、これは生前の私の意志としてしっかり守ってもらうために。
一つ、葬式はいらない、
一つ、墓はいらない、
一つ、火葬にして灰は指定した場所にて散骨にすること、
上記は死んだ場合だが、そこに至る前の話として
一つ、植物状態であれば延命医療はしないこと、
一つ、末期であれば余命を知らしめること、
一つ、出来る限り、自宅で死を迎えらえるようにすること、
これも書き添えておきたいと思っている。
こんな事を書いていて、逆に長生きをしたならそれこそアホみたいな話になるが、そうならないように願うばかりである(笑い)
だいぶ以前になるが、私は記事で旅の途中での死もいいかな、そんな記事を書いた記憶がある、それは老後、死に場所を求めてフィリピンのどこかの島の綺麗な海岸で、、、、
あるいは、もうよれよれでにっちもさっちもいかなくなり、島の可愛い娘さんたちの御世話になり、見届けされながらの旅立ち、なんて話、こんなロマンチックな話を妻にしたら、貴方は何て阿呆なの????
それはお金がある間はそれなりに面倒を見てくれるかもしれないが、貴方の頭がいかれたり、金がなくなりそうになれば、そのうち何処かに捨てられるわよ、それが現実なの! だって!!
そうかもしれないが、全く寂しい話をしてくれる(笑い)
そんな事もあってこの話は取りやめにした、確かに男と女の間も金の切れ目は縁の切れ目、それが縁のゆかりもない他人であればなおさら、どこの誰だか分からない爺いを面倒を看るなんて、そりゃそうだと分かってはいるのだが、、、

写真はこの地にたった一軒だけあった、その名もホテル夕張、ビルの壁は剥がれ、木の看板も剥がれ辛うじて名前が読み取れた程度であったが、それでも中にあった食堂にはかってこのホテルに泊まったであろう昔の演歌歌手のサイン入りの写真が沢山飾ってあった。当時はそれなりに流行っていたこともあったのであろう。
赤い車は私が札幌で借りたレンタカー。
私以外には客もいるはずもなく、暑い日だったがエアコンは元々付いていないというし、夕食は調理人がいないのでなし、朝食は払えばつけてくれるとのこと、結局、夕食は近くのコンビニでおにぎりとビールで済ました。
次の朝、食堂らしき所に待つも誰もいず途方にくれていたら、ご主人が車で大きなバックを担いで降りてきた、何だろうと思っていたら、それが朝食セットだった。
話を聞けば近所に自宅があり一緒に暮らしている母親が私の為に朝食を作ってくれたそうだ、しゃけの切り身の焼いたもの、なすの味噌汁、あじつけ海苔、納豆、おしんこ、卵焼き、そしてご飯、これで一泊朝食付き7千5百円、この過疎地でこの値段、安いのか高いのか、判断に迷うが、こんな経営が成り立つ、これが財政が破錠し潰れてしまった夕張市という現実なのかもしれない。

泊まったホテルの3階の部屋から見た私の育った清陵町の全景、昔はずっと炭住がひしめきあいながら建っていたかっての炭住街も今や無人となった夕張市経営の市営アパート群が残っていた。
子供の頃、とっても大きな炭住街だと思っていた街も、借りたレンタカーで一回りしたらたった30分で終わってしまった、なんだこんな小さな街だったのか、そう思うと少し切なくなった、それはこの街が当時の子供だった私の全てだったからだ。

かっては何百人の生徒で溢れていた母校の小学校も今や取り壊されぽつんと石碑が残るのみ、そして夏には全校児童で行なわれていた大運動会のグラウンドだった場所もただの野原に返ってしまっていた。

今度帰ってくる時は、この土地の土になるため、そしてここで永遠に眠る為。
先の記事で北海道、夕張への旅について書いた、この旅の目的の一つでもあった私の散骨の場所を特定する、その為の旅、その場所が此処。


此処は夕張市、清陵町、流れている川は夕張川、昔は石炭を洗っていた水を流していたので真っ黒な色の川だったが、今は綺麗な清流が淡々と流れている。
最初の写真、川に中島があるが、今から60年前程、この中島は川の真ん中にあった、下の写真、これは左手前に私の育った家があったが、その前に流れていた川がなくなりこのこの中島が岸にくっついてしまっていた。
川に橋が架かっているが、その昔は向こう岸にいくには大回りをしなければいけない場所であった。
私のこれからつくる遺言には、この写真を添付しここに私の遺灰を撒いてもらうように書き残す積りである。
さて、私の眠る場所は決まったが、死に場所は何処かとなると多分だがこのカナダの地になると思う、どこでどのような形で最後を迎えるかは分からないが、このカナダで亡くなる、それはそれで文句はない。
ただ英語でいうリビング、ウイル、別文遺言は改めて書き残しておかなければならない、これは生前の私の意志としてしっかり守ってもらうために。
一つ、葬式はいらない、
一つ、墓はいらない、
一つ、火葬にして灰は指定した場所にて散骨にすること、
上記は死んだ場合だが、そこに至る前の話として
一つ、植物状態であれば延命医療はしないこと、
一つ、末期であれば余命を知らしめること、
一つ、出来る限り、自宅で死を迎えらえるようにすること、
これも書き添えておきたいと思っている。
こんな事を書いていて、逆に長生きをしたならそれこそアホみたいな話になるが、そうならないように願うばかりである(笑い)
だいぶ以前になるが、私は記事で旅の途中での死もいいかな、そんな記事を書いた記憶がある、それは老後、死に場所を求めてフィリピンのどこかの島の綺麗な海岸で、、、、
あるいは、もうよれよれでにっちもさっちもいかなくなり、島の可愛い娘さんたちの御世話になり、見届けされながらの旅立ち、なんて話、こんなロマンチックな話を妻にしたら、貴方は何て阿呆なの????
それはお金がある間はそれなりに面倒を見てくれるかもしれないが、貴方の頭がいかれたり、金がなくなりそうになれば、そのうち何処かに捨てられるわよ、それが現実なの! だって!!
そうかもしれないが、全く寂しい話をしてくれる(笑い)
そんな事もあってこの話は取りやめにした、確かに男と女の間も金の切れ目は縁の切れ目、それが縁のゆかりもない他人であればなおさら、どこの誰だか分からない爺いを面倒を看るなんて、そりゃそうだと分かってはいるのだが、、、

写真はこの地にたった一軒だけあった、その名もホテル夕張、ビルの壁は剥がれ、木の看板も剥がれ辛うじて名前が読み取れた程度であったが、それでも中にあった食堂にはかってこのホテルに泊まったであろう昔の演歌歌手のサイン入りの写真が沢山飾ってあった。当時はそれなりに流行っていたこともあったのであろう。
赤い車は私が札幌で借りたレンタカー。
私以外には客もいるはずもなく、暑い日だったがエアコンは元々付いていないというし、夕食は調理人がいないのでなし、朝食は払えばつけてくれるとのこと、結局、夕食は近くのコンビニでおにぎりとビールで済ました。
次の朝、食堂らしき所に待つも誰もいず途方にくれていたら、ご主人が車で大きなバックを担いで降りてきた、何だろうと思っていたら、それが朝食セットだった。
話を聞けば近所に自宅があり一緒に暮らしている母親が私の為に朝食を作ってくれたそうだ、しゃけの切り身の焼いたもの、なすの味噌汁、あじつけ海苔、納豆、おしんこ、卵焼き、そしてご飯、これで一泊朝食付き7千5百円、この過疎地でこの値段、安いのか高いのか、判断に迷うが、こんな経営が成り立つ、これが財政が破錠し潰れてしまった夕張市という現実なのかもしれない。

泊まったホテルの3階の部屋から見た私の育った清陵町の全景、昔はずっと炭住がひしめきあいながら建っていたかっての炭住街も今や無人となった夕張市経営の市営アパート群が残っていた。
子供の頃、とっても大きな炭住街だと思っていた街も、借りたレンタカーで一回りしたらたった30分で終わってしまった、なんだこんな小さな街だったのか、そう思うと少し切なくなった、それはこの街が当時の子供だった私の全てだったからだ。

かっては何百人の生徒で溢れていた母校の小学校も今や取り壊されぽつんと石碑が残るのみ、そして夏には全校児童で行なわれていた大運動会のグラウンドだった場所もただの野原に返ってしまっていた。

今度帰ってくる時は、この土地の土になるため、そしてここで永遠に眠る為。
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